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話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

英語だけでは、深く考えられない

言語学習が中途半端だと、物事を考える能力の発達に影響を及ぼすと言われることがある。

日本語を生まれた時から日常的に聞いて話し、読んで書き、ずっと学校で国語表現を学んだ人を「100%日本語を学習した人(ネイティブ)」とすると、日本語で思想や哲学をしたり、文学的な表現までは行かずとも、誰かに分かりやすく日本語で物事や気持ちを伝える際の支障が少なくなる、という話だ。

語彙の数のほか、日本語を利用した経験が多いため、簡単な日本語も、複雑な日本語も、あるいは現代語や古語さえも、学習の密度と伸び代の差にもよるが、状況に合わせてスイッチして使うことができる。

けれども、50%しか日本語を学んでいないと、あるところを境に表現できない世界が生まれてしまう。例えば「ご飯が美味しい」と思っても、どう美味しいのか、どうして美味しいと思ったのか、以前食べたアレにどう似ているだとか、伝えたくても言葉が思い浮かばなくなってしまう。

言葉が思い浮かばないというよりは、そういう言語表現をしたり聞いたりした経験が殆どないがゆえ、そんな考えすら、頭のなかに浮かばない可能性もある。

勿論、学校教育で50%しか習うことができなかったからといって、必ずしも日本語を上手く使えないというわけではない。 小学校までは日本で育ったが、それ以降は米国の現地学校へ行ってしまったため、日本語と英語を半分ずつしか学校では勉強しきれていない方でも、個人学習で補完し語学力を伸ばすことができた、なんてケースもあると聞く。

私はというと、日本語はネイティブで、割と得意な方だと思う。けれども英語は、仕事用の英語が多少分かる程度で、日常会話はほとんどできないという超アンバランスな状態だ。

ここ1、2年仕事で英語を日常的に使っているのだが、話題や会話にパターンがあるので、それ以外の話の表現の仕方や語彙を知る機会がない。 それに、普段は日本語で生活してるので、英語話者と普通の会話をする際には支障が出てしまう。留学経験もなければ、元々英語が苦手だったせいもある。

この語学レベルのせいで例えばどんなふうに困るかというと、以前こんなことがあった。普段はアメリカにいる仕事のパートナーが日本へ来ていたので、食事へ行き、いろんな話をする中で、好きな映画の話になった。たまたまイーサン・ホーク主演の「Before Sunrise」という同じ作品を気に入っていることが判明し「おー!」と盛り上がったのだが、私はその先なんと言えばいいか分からなくなってしまった。

日本語でなら「前作に続くストーリーという設定、物語の登場人物も演じる俳優も同様に歳をとっているという点が好き」「別の国同士の人間が、言葉を通じて恋に落ちていき、気持ちを確かめ合う感じがたまらない」なんて語り出したら止まらないはずなのだが、口を噤んでしまった。

何の言葉も頭に浮かばなかったのだ。英語を話す時、英語で物事を考えながら英語を使うようにしているのだが、これまで上記のようなことを思い浮かべたり、言葉を読んだり聞いたりした経験がなかったため、すごく困った。

だから「会話やセリフが良い」「センチメンタルな気分になる」「サウンドトラックも挿入歌のCDも買った」といった抽象的で簡単な表現に終始してしまい、すごく悔しい思いになった。

日本語では深い考えが浮かぶのに、英語では全くそういう行為ができない。彼も私の焦れったい気持ちを理解してくれた。「美波はいつもたくさん考えているはずだから、分かるよ。また会った時に話そう」と。

けれども、次の日にはアメリカに帰ってしまう彼と、日本語でするような濃厚な会話ができなかったのが、とにかく苦しかった。

それから私は、深く考えたことを英語の文章で具体的に書く練習をすることにした。いつかまた彼に会った時私の考えをきちんと伝えることもできるし、自分のためにもなるからだ。

何ヶ月か経ち、やっと英語でエッセイをひとつ書けたので、第1作目をその彼に「良ければ」とシェアしたところ、嬉しい言葉を返してくれた。

I hope you continue to write - in English - and share your thoughts, so I can keep up with you!

英語で深く考え、それを伝えられた経験を経て初めて、言語の壁を越えて、心を通わせる喜びを知った。

落語初心者による、「渋谷らくご」体験記

落語って面白いのだろうか。好きな人はよく通っているけれど、初心者の私には古い言葉も文脈も理解できず、きっと楽しめないに違いない。けれどいつかは行ってみたい。そんな気持ちをずっと抱えながら生きてきた。

しかし先日、思い切って落語へ行ってみようと思った。誕生日だったからだ。毎年誕生日には、「興味はあっても踏み込めなかったこと」を体験する機会を自分にプレゼントしているのだが、今年はそれが落語だった。

実は友人に誘われて、2、3度寄席に赴いたことがあるのだが、その後自ら演芸場を訪問していなかったのも、今回のきっかけになっている。せっかく貰った機会を無駄にしていたなと悔やんでいたのだ。

それに、「初心者でも楽しめる」がキャッチコピーの落語のイベントが馴染みのある渋谷のライブ会場で開催されていた。 「渋谷らくご」という渋谷の劇場・ユーロライブで開催された定期落語会で、お笑い芸人のサンキュータツオさんが、毎回出演する噺家さんをキュレーションしている。 タツオさんが「落語初めての方も」とよくツイートされているのも背中を後押しした。

そんなわけで、9月9日〜13日の間開催された渋谷らくごに行ってきた。実際に観覧してみると、非常に面白かった!お笑いのライブを見るような感覚でリラックスして楽しめた。江戸の職人の人情溢れるエピソードが多く、特に「子別れ」という噺には涙してしまうほどだった。

私の大好きな鰻を食べるシーンもあり、食べられていた鰻の形態についての考察、他に鰻が出てくる落語をついつい調べたりもしてしまった。

*「後人鰻」は、「後生鰻」の間違い

古語ばかりで分からないかと思いきや、全くそんなことはなく、殆ど現代語で、きちんと聞き取れるし理解できた。難しい専門用語や落語ファンならおなじみのエピソードが出てくると、噺家さんが話の流れの中でスムーズにジェスチャーをつけて説明してくれて、置いてけぼりになることもない。そうして自然に落語に詳しくなっていけるのも良い。

落語の噺を始める前の「まくら」では、落語家の普段の姿、最近行った営業先でのエピソードなど、どんな人にも身近に感じられ心をほぐしてくれるような話をしてくれる。

「渋谷らくごに出るからにはーー」といった、"ならでは"のエピソードを展開してくれる噺家さんも多く、其々がどんなまくらを話すのか楽しみで仕方がなくなった。なお、まくらはpodcastで聴くこともできる。

毎回発行されている「どがちゃか」という「公式読み物」(パンフレット)には、出演する噺家さんの紹介や前回のアーカイブも記載されていて読み応えがあって面白い。これに載る自分の紹介を楽しみにしているという噺家さんもいた。

古典芸能を観に行くと、よくおじいさんやおばあさんの中に1人若者が紛れてしまい、肩身の狭い思いになったりもするが、若いお客さんが比較的多いのにも安心できた。

また、演芸場ではどこでどんなふうに料金を払ったら良いか分からず、休憩のタイミングも掴みづらかったりもするが、「渋谷らくご」は予め決められた時間帯の講演から好きな回を選び、カウンターでチケットを購入するシンプルな導線なのも良い。

しかも、4人の噺家が出る「しぶやらくご」は大人の当日券で2500円、2人の噺家が出る「ふたりらくご」は1200円と凄く安い。ふらっと映画を見に行く感覚でむかえてしまう。当初の私のように、敷居の高さに怯えて行こうか行くまいか悩んでいる人は、是非気軽な気持ちで行ってみて欲しい。

こんなにカジュアルに落語を楽しめるのなら、時間さえ合えばきっと来月も行くんだろうなと思っていたら、本当に来てしまっていた。落語にハマり始めている自分を見つけた。

*渋谷らくごの10月公演は18日まで開催されている。

東京者は「地方の人」と言うと嫌われる

そういえば、今年は「地方」へ行っていない。
それどころか東京23区、しかも千代田、中央、港、渋谷、新宿の5区以外へは両手で数えられる程度しか訪れていないような気もする。

「田舎っぺ」という、田舎で育った人や、田舎にずっと住んでいる人を指すあまり良くない差別用語があるが、言うならば私は「東京のかっぺ」であると思う。少し恥じらいすらある。生まれ育った東京から殆ど出ることなく生活してきた。

東京にしか住んだことがないし、東京しか知らない。まあ正直、それで特に不自由なく生活できている。むしろ恵まれているから、問題ないのだろう。それに、東京については強い愛着があるので、割と人より歴史や文化に詳しいし、その自信もある。充実している。

けれども、他県から東京へ出てきた人に出会うと、ほかの土地のことも知っているのが羨ましくなり、じれったい思いになる。「なんで私は東京以外に住んだり、長く滞在したり、きちんと訪問した経験がないのだろう?」そして「東京へ出るという感覚を体験していないのだろう?」と。

まるで何も苦労を知らない、他の世界を知らない、子供のまま歳をとってしまったダメ人間みたいではないかと。自分の無知を恥じるし、東京出身者以外との壁に、孤独を感じる。

そんな私は「東京」と「それ以外」という概念で、自分の身の回りの土地や世界をまったく自然に見ている。そして本当に悪気なく、「それ以外」を指す言葉に「地方」を使う。

そういう言葉が元々あったから用いただけなのだが、度々「配慮がない」とか「これだから東京者は」と揶揄される。

身の回りの人や、テレビやメディアではよく使われている言葉だから普段通り使っただけなのだが、初めて「地方の人」にこう指摘された時、失言をしたのに気がついた。東京の人が「地方の人」と言うと、他県を見下しているように感じられてしまうそうなのだ。

知らなかった分、すごく苦しくなった。彼らと壁を感じていたにも関わらず、更にその溝を深めることをしてしまった自分の過ちを反省した。コミュニティの外に追いやられた気がして、本当に寂しくなった。

東京のカッペは、東京のカッペなりに、他の出身者と上手に仲良くやれない難しさを感じているのだ。

ところで「東京のカッペ」という造語は、私のよく行く下町の老舗の喫茶店の店長が、彼自身について称していた言葉だ。
私や他の客が「今日は丸の内に行ってきた」、「銀座に新しい施設ができたらしい」なんて東京の他の土地の話を彼にすると、「外のことはわからねえや、俺は『東京のカッペ』だからさ。この店は年中無休だし、旅行に行く金もないし、もうこの土地から30年、いや40年以上出てないからな。銀座も丸の内もわからねえや」といった話で〆てくれる。

この掛け合いがなんだかいじらしく、気持ちがよくて、自分の生い立ちにも重なり、何度でもやりたくなってしまう。店長も、店やその街を片時も離れたことがないのを誇っているようで、なんだか嬉しくなる。

ちなみに、東京下町の孤島に暮らす「カッペ」が入れてくれるコーヒーは、ちょっと薄くて苦味もなく、新聞片手に何杯でも飲める懐かしい味わいなのが気に入っている。

焼肉屋でタン塩ばかり食べてしまう/下北沢牛タン居酒屋「たんたん」

「タン塩」は、その言葉に触れてしまったら最後。コリコリ、プリプリとしたなんとも言えない食感と、噛めば噛むほどに出てくる肉の旨味を思い出し、その瞬間、すぐ焼肉屋へ駆け込みたくなってしまう。

お昼時ならば、牛タン・とろろ・麦めしの抜群のセットを提供してくれる「ねぎし」で定食をかきこめばいいが、どうしても業務を抜けられない時なんかはコンビニでチルドの「スモークタン」を買って食べる。140kcalくらいとヘルシーだし、牛タンの食感、レモンと塩と肉の旨味をなんとなく味わえたような気がして多少満足できる。

思い起こせば、タン塩を初めて食べたのは20年程前だった。フジテレビ系の情報番組「発掘あるある大辞典」か何かで、「牛タンがこれから流行る」と知り、「とりあえず試してみるか」と家族で近所にある1番手軽なチェーンの焼肉屋に行ってみたのが最初の出会いだったはずだ。かなり薄い肉のスライスではあったが、確かにそれは牛タンであった。

これまで食べていた焼肉のそれとは明らかに食感も違うし、ほかのどの肉よりも先に焼かなければならないルールだとか、タレ味の焼肉のように特別ご飯が進むと言うわけではないが、レモンと塩で食べる独特の作法に、大人な嗜みを感じて気に入った。

ただ1人、「焼肉はタレ味」「肉は脂の乗ったサシの入ったものしか認めない」と言って聞かない頑固者の父だけは、タン塩を初めて食べた日に「まずい」と言って、それ以来絶対に手をつけなかったので、タン塩派が焼肉を嗜んでいる数十分の間はずっとお預け状態だった。

大人になってからも、焼肉屋ではこうして「タン塩食べない派」の待ちの時間ができてしまい、忍びない気持ちになることが時折ある。そもそも焼肉屋はみんなで美味しいお肉を食べる場所であって、「タンを心行くまで食べたい派」が欲望を全面的に露わにしていい場所ではない(たぶん)。では、そんな少数派の人々はどんな店へ行けばいいかといえば、これから紹介するような牛タン料理の専門店である。

牛タン好きの友人とその日向かった下北沢の「牛タン居酒屋 たんたん」は牛タンの部位に合った調理を施し、様々な牛タン料理を提供している。歯ごたえのある部位は焼き料理に、スジ肉ならば煮込んで旨味を出してシチューやカレーに、といった具合で。珍しいメニューもあり、牛タン入りのおでんやコロッケ、メンチカツなどもある。

注文したのは「とろとろゆでたん」、塩・味噌・ネギの三種の味を楽しめる「3種MIX焼き」。ゆでたんは、噛み応えを残しながらも口の中で解けていく感覚に驚いた。玉ねぎと一緒に煮込んだスープの自然な甘さと凝縮された旨味がたまらない。

3種MIX焼きは違う味付けを少しずつ楽しめ、色々食べたい欲張りな人には嬉しいメニュー。中でもネギ味は生姜が入ったさっぱりとした味付けで、不思議なくらい沢山食べられる気持ちになる。気に入ってしまい、単品でさらに追加してしまった。

たんたんを始める前は、野菜の専門料理店で働いていたというオーナー夫妻。その知識を生かし、メニューには「季節野菜のパフェサラダ」「ごぼうのから揚げ」など沢山の有機野菜の料理が並ぶ。注文した「焼きなす」は、なすをまるまる一本とろとろになるまで焼いて、丁寧に皮をむいた状態で提供された。たっぷりの削り節と醤油をかけていただく。

合わせる飲み物は日本酒がオススメだ。十種類ほどあるお酒の中からどれを選べばいいか悩んでいると、ご主人が好みを聞いてそれに合ったものを提案してくれた。基本的に辛めのすっきりとした味わいのものを多く揃えているという。日本酒のほかに、ビールやワイン、焼酎もある。

さて、こんなに私を長きに渡って魅了する牛タン。牛タンを今のように鉄板で焼いて食べ始めたのはいつ頃か調べてみたところ、諸説あるが、戦後のヤミ市にルーツがあることがあるとわかった。戦後の食糧難のなかで、昔は食べずに捨てられていた牛や豚の内臓がヤミ市で流通し、それを焼き始めてホルモン焼きやもつ焼きが始まったとされているが、日本で牛タンを鉄板で焼いて食べるのも、そこに起源があると言われている。

では、誰がこの「牛タンを焼く」という行為を発明したか。という問いを解き明かしたいのだが、「焼き鳥を始めたのは誰だ?」という話にも似ていて、答えは「旧石器時代に鳥を焼いて食べていたことが最初ではないか?」のような太古の歴史の調査をもとにした回答になり、普段の生活とは遠い話であるがゆえ、ちょっぴりつまらなくなってしまう。ちなみに、牛タンを食すルーツも旧石器時代にあるそうだ。

上記の反省を踏まえ、あるメニューに焦点を絞ってルーツを調べてみると、身近で分かりやすい話になる。例えばタン塩なら、1976年六本木に「叙々苑」を創業した新井泰道氏が開発したと言われている。

「目玉商品がほしくて肉屋さんに相談したら、タンを使いなよ、と勧めてくれたんです。当時は、タンシチューぐらいにしか使ってなかったから、品物が余ってた。塩をかけて焼いて、賄いで食べてる、というんですよ。旨くて安いよ、と。レモンダレは、タン塩にレモンを搾って食べたい、というホステスさんの注文がヒントになった」。

日経レストランオンライン

ほかにも、仙台の名物料理の「牛タン焼き」は、元々焼き鳥店を営んでいた「太助」の初代・佐野啓四郎氏が、牛タン焼きの専門店を開業したのがその始まりという。

ではタンシチューは?ゆでたんは?とどんどん気になって来るところだが、取り上げ始めたらキリがないのでこの辺にしておく。このように牛タンとっいってもいろんな切り口で語ったり調べたりできるのも、私は凄く魅力に感じている。

次は四ツ谷にある「たん焼・忍」、秋葉原たん清」に行ってみたい。仙台の牛タン焼発祥の店「太助」も水道橋に支店があるそうで、気になっている。今回食べなかったメニューを試しにまた「たんたん」へ行ってもいいな。明日、いや、今すぐにでも行ってしまいそうだ。

都電荒川線と母の思い出/三ノ輪・蕎麦「砂場総本家」

私と母はいつも一緒だった。

幼い頃、母と2人でちょっと遠くへ出掛けるには必ず都電荒川線を使っていた。都電を使う理由は、荒川区町屋に生まれ育ち、社会経験の少ない母にとって、JRや地下鉄よりも、昔の記憶を頼りに使える都電が1番勝手が効くためだ。

あらかわ遊園」の乗り物で遊んで、そのお昼には母の作ったお弁当を食べたり、庚申塚の巣鴨地蔵通り商店街にある観音様を一緒に洗ったりした。梶原の和菓子屋「明美」では、餡子と求肥を都電の形の皮で挟んだ「都電もなか」が大好きで、買ってもらって喜んで食べていた。

明美の都電もなか

そういえば、母に都電での思い出話を聞いたことがある。小学生の時、親にこづかいを貰って都電で出掛けてみたものの、最寄り駅より2駅も行き過ぎてしまい、所持金もなく、泣きながら自宅までの長い道のりを歩いて帰ってきたことがあるそうだ。約50年前の当時の都電の乗車料は15〜20円ほどだったという。

現在は170円まで時代とともに値上がりしたが、母に貰うこづかいの100円がどれだけ有り難かったかを思い出させてくれるエピソードだった。

随分昔に、私は1人家を出ることになった。年に一度顔を見ることもない位、家族とも母とも疎遠になっていた。1人暮らしを始めて数年経った頃、私の祖母、つまり母のお母さんが亡くなった。あまり哀しい話をしたり、そんな表情を見せることすらなかった母が、私とのメールの中ではよく泣いていた。「なんで死んでしまったんっだろう」「まだ沢山したいことがあったはずなのに」。

哀しみが癒えてきたころ、彼女は祖母との思い出話をしてくれるようになった。「貧乏暮らしだし面白くないかなと思って」と母はあまり話してくれなかったし、今まで私から聞くこともなかったが、それはとても美しい荒川区町屋の娘の物語のように聞こえた。

以降、私は母の話を頼りに、荒川区町屋周辺を訪ねてみるようになった。こういう言い方なのは、プライベートで町屋に降りたこともなかったし、遠い昔に祖母の家へ行った記憶も殆ど残っていなかったためだ。

なんとなくまぶたの裏に、踏切近くの長屋の二階と老齢の夫婦は映っているのだが、霞みがかっていて実態が掴めない。けれどもそれが私の実家なのだということは、心で分かっている。

母は町屋近くの「ジョイフル三ノ輪」という大きな商店街で、毎日の食事やお弁当用の食材や、お惣菜を買っていたと聞いた。共働きの家庭に育った彼女は、家で掃除炊飯の殆どを担当していたという。

歩いてみると生鮮食品や食料品のお店以外にも、文具店、服屋、カメラ屋など様々なジャンルの店が入り乱れて存在している。魚の少し生臭い匂いや、揚げ物の匂いの中で自然に売られる生活用品にこの世界の当然を感じた。ジョイフル三ノ輪にはこのあたりに住む人々の生活のすべてが入り混じっている。

写真やビデオで母の幼い頃や若い頃の姿を見たことはこれまで一度もなかったが、彼女がどんな暮らしをしてきたか、何となく分かった気がして少し嬉しくなった。

このほか、漫画や雑誌のほか、鉄道の時刻表がなぜか充実している古書店「古書ミヤハシ」、商店街の中央に位置する銭湯「大勝湯」など、本当に色々な店があり、歩いているだけで楽しい。一方で、シャッターが閉まっている店もチラホラあり、寂しさも感じる。母の話によれば、「昔はもっと沢山人もお店もあって、盛り上がっていた」そうだ。

それからジョイフル三ノ輪を訪問する度に訪れる店ができた。「砂場総本家」という蕎麦屋で、ジョイフル三ノ輪にあるお店の中でも外観をひと目見ただけで、凄く歴史あるのがすぐに分かる。調べてみると「砂場」と名のつく全国に約150店ある蕎麦屋の本家本元だった。とはいえ、なんだか商店街に馴染んでいるのが良い。

砂場総本家は、1804年に麹町で創業し、1912年に三ノ輪に移転した。移転した大正の当時から同じ建物を使っているそうで、店の裏手に回ってみるとその歴史を感じることができる。店内に入るとより一層体感できる。

店に着くと頼むのは瓶ビール。それから「やきとり」、「天ちらし」。やきとりは、串焼きの焼き鳥のようなものではなく、皿に盛られた蕎麦屋の一品料理。ふっくらプリプリの身に甘辛いタレ、白ネギを添えて食べる。「天ちらし」とは天ぷらの盛り合わせのことを指す。この店で教えてもらった豆知識だ。

最後は〆の蕎麦だ。いつも「もりそば」を食べるか「ざる蕎麦」を食べるか、それとも「おかめそば」を食べるかしばらく迷い、注文する。この日はもりそばにした。やや硬めのそばに、辛めのつゆ。ザクザクと切られた白ネギとワサビをつけてすする。「蕎麦はやっぱりこういうものだよな」という気持ちにさせられる。庶民的で、どこか懐かしい。

店を後にし、ジョイフル三ノ輪を歩きながら、今日の出来事を母にLINEで連絡する。「懐かしい!久しぶりに行きたいなあ」と喜んでくれる。そして「昔はね」と、母はまた荒川区町屋での思い出を話し始める。

雨上がりの晴れやかな気持ちと、ショパンとベトナム戦争

振り返れば、暗闇にいた時間があったなと、そんな遠い日を思うことがある。それは一見、非常に貧しかったり苦しかったりする話でもあるけれど、見方によっては、煌びやかで楽しい毎日であったりもする。それに、その暗闇の体験がきっかけとなり、その後の人生が素晴らしいものとなったりもする。

想像を絶するような暗闇を乗り越えたエピソードを持つ、素晴らしいピアニストがいる。ベトナム人のピアニスト、ダン・タイ・ソン(58)だ。彼は第10回(1980年)ショパン国際ピアノコンクールのアジア人初の優勝者で、私の1番好きなショパンの音色を奏でる演奏家でもある。


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 1st movement (1/2) - Dang Thai Son

ダン・タイ・ソンベトナムの中でも裕福な方の家庭に生まれたが、その時には既にベトナム戦争が始まって3年が経っていた。彼は生まれながらに、ひとりの大戦の犠牲者なのだ。

ダン・タイ・ソンの家族は、戦争が激化するにつれ、望まぬ疎開生活を余儀なくされる。そしてとうとう、彼もピアノを弾けない状況に立たされてしまう。そこで彼はどうしたかというと、疎開先や、防空壕の中で紙に鍵盤を描いて練習していたそうだ。

一体彼はどんな思いで、振動も圧も音もない鍵盤の感触を、暗闇の中で確かめていたのだろう。ピアノのメロディの代わりに聞こえてくるのは、爆撃や恐怖に震える声だったかもしれない。それに、ピアノを弾いても周りには観衆もいないし、そんな舞台もない。

もっと言えば、どんなにピアノを頑張ったって、今後、浮かばれる未来はどこにもないかもしれないにも関わらず。ベトナム戦争は1955年に始まり、終焉したのは1975年。彼が16歳の時だった。

その5年後、ショパン国際ピアノコンクールという世界中のピアニストが憧れる舞台で優勝した時には、彼はどれほど浮かばれた思いになっただろう。彼のその時の、雨上がりの晴れやかな空のような気持ちを思うと、感情移入せずにいられない。

さて、彼はどんな演奏をするかというと、楽譜に忠実で、着色をあまりしないように思う。 基本的に演奏家というものは、楽譜や作曲家の情報から曲の意図を汲み取って、自分の心に落とし込み、その類稀な技術に練習を重ねて仕上げていく。そのなかで、自分なりの特徴的な表現や理解を出していくのが演奏家の「やり方」である、と私は思う。

特に、ショパンのピアノは叙情的で詩的なので、演出の細工をしようとすれば、分かりやすくロマンチックで激情的な音色になったりするのだが。

だから私はショパンのピアノについて、モーツァルトよりも、ベートーヴェンよりも(そりゃあバッハよりも)弾き手の「らしさ」を出しやすいし、感情の表現をしやすいと思うのだが、ダン・タイ・ソンという人は、ショパンのピアノについては、あえて、着色を殆どしていないように感じている。

きっとダン・タイ・ソンは、ピアニストとして、人間として、ショパンらしくあろうとしているのではないだろうか。そして、もしかすると、ロシアに祖国ポーランドを支配され、政治的動乱に人生を巻き込まれ続けていたショパンの生い立ちに、彼は自分の人生を重ねているのではないだろうか? それゆえに、ショパンの旋律やメロディに「着色しない思想」があるというのならば、なるほど頷ける。

ところで、私がダン・タイ・ソンの弾く曲の中で1番どれが好きかというと、「ピアノ協奏曲ホ短調第1番」。ショパンやクラシック初心者の方にも何かと「分かりやすい」と思うし、物語のような展開が有って聴いていて楽しいのでオススメだ。

ピアノ協奏曲ホ短調第1番は、ピアニストが独奏し、それをオーケストラが盛り上げるスタイルの曲で、第1、第2、第3楽章で構成されている。ショパン国際ピアノコンクールの決勝戦(ファイナル)の課題曲にもなっている。

なので、ショパンを愛する人々にとっては「定番」と言ったポジションの曲でもあり、大事な曲でもある。このブログを読んでショパンダン・タイ・ソンに興味をもってくださった方はぜひ、聴いてみてほしい。ピアノの演奏はなかなか始まらないけれど、頑張って我慢して聴いて欲しい。

なぜならーー。4分近くの荘厳なオーケストラの演奏が終わった後に、やっと始まるピアノの独奏は、これ以上の胸の高まりはないと言えるほど甘美で豊かな音の移ろいで、さっきまで鳴り響いていた重厚な音を忘れさせてしまう世界観を感じさせ、更には、長い暗闇から解き放たれた、あの時の空のような、晴れやかな気持ちを思い出すことが出来るから。


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 1st movement (1/2) - Dang Thai Son


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 1st movement (2/2) - Dang Thai Son


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 2nd movement - Dang Thai Son


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 3rd movement - Dang Thai Son

昨日の声、遠い土地、違う国

異国に想いを馳せることが多くなりました。いや、その余裕を持てるようになった、との表現の方が適切かもしれません。

仕事の関係上、違う国にいる仲間と電話で会議をよくするのですが、そのために、彼らの居る場所の時差を考えながら、互いにスケジュールを提案し合い、調整します。

例えば、日本とサンフランシスコなら、「日本時間午前9時、西海岸時間午後5時はどうですか?」と言った感じで(そこにロンドンやシンガポールシドニーの仲間が入ってくると、もうごちゃごちゃになりますが)。

指定の時間に電話をかけると、互いの国の時間帯が違うからなのか、「おはよう」でも「こんばんは」でもなく、「Hello」か「Hi」と皆決まり文句のようにまず挨拶をします。 こういう所がこの言語の素晴らしく便利で、合理的なところだと、最初の頃はとても感動していました。

今では流石に慣れが生じて、外国の方を恐れたり怖がったりすることもなく、会話の途中で(アメリカは−16時間だからまだ過去、シドニーは+1時間、ということは未来なのか…)といつも通りに(?)、いちいち感傷的になれるようにもなってきました(毎回ポエティックになるのは私らしくて、それはそれで面倒なのですが、しかし、どの言語を聞いていても、私は私で居られるのは有難いことです)。

ところで、海の向こうの過去から呼び掛けられる声って、何だかとてもロマンチックだなと思うんです。そして、その会議に参加している人間だけが、広大な場所と時空を行き来する感覚を味わえるだなんて、とても贅沢だと感じませんか?

私は全くと言っていいほど海外旅行へ行った経験が有りませんが、こういう機会を得て、初めて外の世界に興味を持ちました。また1つ、新たな価値観を手に入れられたような気がします。

さて、昨日と一昨日は、長く一緒に仕事をしていたアメリカの方が仕事を辞められるというので、彼と一緒にオンラインで彼の残りのタスクを片付けるような作業をしていました。 来週はアメリカ独立記念日で、時期的には夏季休暇(バケーション)にあたるので、このタイミングに合わせて他にも辞められる方も多いのかもしれません。

棚卸しの作業の中で、ふと、数年前の自分は、英語をテキストに起こすことすら、「I」の後に何を記せばいいか全く分からず、よく固まっていたのを思い出しました。 同時に、この長い期間に、彼から英語も仕事も全て教わっていたようなものだと、そこで初めて気づき、感謝の涙で溢れるような気持ちになりました。

兎に角、一から私に教え込むしか、方法がなかったのかもしれませんが、彼と私が、父と娘くらいに歳が離れているため成り立っていた関係性かもしれないとも思います。

今、日本時間ではもう土曜日の昼ですが、アメリカ時間ではまだ金曜日の夜です。今頃向こうでは、TGIFが開かれている頃でしょう。

彼はいつも、アメリカ時間の木曜日に「良い週末を」と言ってくれるとても優しい方でした。 私は、彼のような、優しさのために知性を使える人間になりたいです。