読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

夏がくれば思い出す、恐怖について

生きることは、それ自体が恐いことだと思う。

少し短い梅雨が終わって、太陽がこれでもかというくらいに照りつけるようになった。ムッとした暑さに、汗が止まらない。熱帯夜で眠れないので、明け方まで起きてしまう。まだ7月だから、セミの鳴き声は聞こえない。もう少ししたら、うるさくなるのだろう。そうこうしているうちに、ちょっとだけ過ごしやすくなって、リーンリンと鈴虫が鳴くようになる。

私は季節の変わり目に、恐怖を感じる。季節が変化するということは、時が経ったということだ。それだけ、私自身の生きている時間が経過してしまったのを意味している。季節の移ろいに気づくたびに、一歩一歩着実に死に近づいているのを、確かめているような気がしてくる。

もはや、季節を楽しむ行事や遊び、嗜みだとかが、死の恐怖への慰めでしかないような気すらしてきてしまう。

たぶん、季節が変わることは、人生が終わりに向かっていることを暗に示しているというのを、みんな暗黙の了解で知っている。けれども、同じ生きる人間として、人生の終わり、つまり、死が恐いということも、暗黙の了解として分かり合っている。

でも、その暗黙の了解を口にしたら、きっとダムが決壊したように、恐怖が湧き出てきてしまい、みんな悲しい気持ちになる。死ぬことが、生きることが、恐くなる。

その、季節の移ろいの悲しみを、“儚さ”に変える慰め、いや、“ユーモア”が、季節を楽しむ行事や遊びなんだと思う。そりゃあ死に向かっていくのは悲しいけど、でも夏は素麺やスイカが美味しいし、風鈴の音は綺麗だし、お祭りや海水浴は楽しいよね、次の夏や、次の次の夏が来たって、なんだか幸せな気持ちでいれるね、という感じで。だから、みんな楽しめるのだと思うし、みんなやりたがるのかもしれない。

“(ずっと)死のうと思っていた”太宰治は、正月に麻の着物を貰って「夏まで生きていようと思った」そうだが、季節の移ろいの悲しみを儚さに変えるユーモアは、生きる希望にすら、なるのだろう。

恐怖なんて、無くもがなである。 ――と片づけてしまふ人は、話にならない」。