話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

カルピスの時間

夏といえば冷たいカルピスだ。
 

私はピアノ教室で飲む、カルピスが好きだった。カルピスは先生がキッチンで用意してくれて、レッスンの前後にダイニングルームで飲むことができる。ぶどう味の時もあれば、オレンジ味の時もあった。

 
先生は鼻歌交じりにテンポよく準備する。“美波ちゃん用”のミッキーのグラスの下に、コースターを敷き、色付きのストローをつけて「どうぞ」と出してくれる。
 
私は先生が作ってくれたカルピスを何杯も飲んだ。ちょっと味が濃くて、ちゃんと氷入りで、どこで飲むカルピスよりも一番美味しく感じた。夏は暑くて喉が乾いてるから、一層うまい。家でたくさん飲んだら母親に叱られるので、ここぞとばかりにゴクゴクと飲んだ。
 
私がカルピスを飲んでいる間、先生は綺麗なティーカップで紅茶を飲んでいた。その時間だけ、先生がすごく上品な女性に見えた。長い髪をバレッタでまとめ、丸い眼鏡をかけ、フワッとしたスカートをいつも履いている先生だった。
 
私も先生もお喋りが苦手だった。だから2人だけでお茶をすると、沈黙することが多かった。でも、その時間がすごく好きだった。楽しいようなつまらないような、でも凄く美味しい時間だった。ピアノを弾くのも、ピアノ教室へ行くのも大好きだった。なによりカルピスが、美味しかった。
 
ピアノ教室へは幼稚園から通っていたが、中学の受験勉強が忙しくなって辞めてしまった。当然のことだが、カルピスも飲めなくなった。それから学校が終わればすぐに塾へ行き、寝る直前まで勉強をする毎日が続いた。
 
勉強は好きだったけれど、塾には友達が殆ど居なかったし、いつもいい成績を残さなければならなかったので、その生活は凄く凄く辛かった。皮肉にも、塾はピアノ教室と同じビルにあった。ピアノ教室を横目に塾の中へ入る時、ピアノを弾きたいし、先生とカルピスが飲みたいといつも思っていた。
 
そんな時は部屋を締め切って、ショパンノクターン2番を聴いた。何か弾いてみれば良いのだが、大分演奏していなかったので、ピアノを弾く勇気など持てなくなっていた。私は今でもこの曲を聴くと、閉じ込めた過去を思い出して、とても切ない気分になってしまう。
 
私は最近、このカルピスの時間みたいなものを、大切にしたいと強く思うようになった。生き甲斐みたいなものは、受験勉強やそれで得た結果のみにしかないわけではないと、痛感したからだ。むしろカルピスの時間にこそ、本質があるのかもしれない。
 
だから、身の回りに生き急いでいる人を見つけると、カルピスの時間みたいなものをつい与えたくなってしまう。夏に飲む冷たいカルピスは、すごく美味しいから、是非飲んでみると良いと思って。