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話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

SNSに投稿する写真は、誰のためのものか?

ソーシャルメディアの出現によって、写真を撮ることは、SNSに投稿するのとセットでやる行為になった。写真は撮るだけなら、思い出を残すか、内なる芸術性を表現する手段でしかないのだが、SNSへ投稿する目的がプラスされることで、誰かに評価されるための手段としての色が、濃くなってくる。

たとえば料理店での写真なら、どんなメディアに取り上げられた、どんな著名人が来る有名な店か、どんな凄い相手と食べるか、などの情報がいかに詰まっているかが重要だ。それゆえ、キャプションの文章が、冗長になりがちになる。極論、料理の味や、一緒に行った人との会話の内容など、あまり関係ない。SNSでいいね!されればされるほど、美味しかった料理になるし、嬉しい思い出になる。誰かに自慢したいことになる。

写真を撮ろうと決めたその瞬間に、SNSでいかに評価されるかというのを、無意識に意識している。そのカメラで切り取られる思い出は、SNSで評価される切り取りをするために、作り出された思い出なのだ。ーー今撮ろうとしているその写真は、その思い出は、一体誰のためのものなのか?

一方で、撮るのと投稿するのがセットになったことで、良かったこともたくさんある。多くの人が、大量の写真を、ネット上に残すようになった。何十年何百年と保存される写真やネガは、ほんのひと握り。これまで以上に、たくさんの歴史を、未来に残すことができる。加えて、物質としての印刷された写真ではなく、ネットの情報としての写真になることで、他国や地方の家族や友達、多くの人と共有できるようになった。テクノロジーは、時空を超えた。

ほかにも、評価されようと写真を撮るがゆえ、より良い写真を撮ろうとするので、一般人の写真技術の底上げがなされた。その点では、結果的に文化や教養面でのレベルアップがなされたとも言える。さらに、いい写真を撮れるカメラアプリがどんどん作られ、開発会社ができ、そこに雇用や経済が生まれた。素晴らしいことだと思う。


話は変わるが、私は3カ月に一度くらい、仲間を自分の家に呼んで、手料理を振る舞う飲み会をする。有難いことに、料理はいつも売り切れるのだが、料理やその時の写真を誰も撮ってくれない。SNSにも、あげてくれない。そこまで気にしてないけれど、なぜだろう?と、ちょっとだけ、寂しい感じがしていた。

でも、無理して食べたり、家に来てくれているのかもしれない。勇気を出して、その理由を友達に聞いてみる。すると、「美味しそうだから、(料理が)出て来たらすぐ食べ始めちゃって、気が付いたらいつも、(写真を)撮り忘れてる」と返してくれた。私は顔が真っ赤になって、ちょっとだけ涙してしまった。そんなことがあった。


そういえば、本当に楽しかった思い出の写真は、殆ど撮られていないことが多かった。写真を撮るのも、投稿するのも、SMSを開くのも忘れてしまうくらい、その時間に、その相手に、夢中になっているのだろう。

写真に切り取られない出来事に、語られない思い出に、ロマンがあるような、気がしている。