話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

物の儚さとずるさについて

ビール瓶の栓抜きのデザインが好きだと、ある人が言っていた。正式には「王冠抜き」と呼ぶらしい。無駄な装飾をせず、ただ栓を抜くのに特化しただけに見える、シンプルなもの。だが、大量生産を可能にさせる構造であるほか、キッチンの引き出しや戸棚など、どこに置いても邪魔にならないし、気軽に持ち運べる大きさや重みであることなどに気づくと、計算し尽くされたそのデザイン性に、拍手をしたくなる。かわいい顔して割りとやるもんだね、と。


東京の調理器具の問屋街として有名な「かっぱ橋道具街」では、そういったツールにたびたび出会うことができる。例えば「とうふすくい」。その名の通り、鍋から豆腐をすくうためだけの器具であるが、これもなんとも言えない奥深さのある逸品だ。銅で作られた長い柄の先に、台形の豆腐をすくう網が括りつけられている。網が平面的な構造になっているのは、お玉のように丸みがあると、サイズの合わない豆腐をすくった時、崩してしまう恐れがあるからだ。手で持ってみるととても軽い。うっかり鍋に落としてしまっても、鍋の中の豆腐が崩れることもない。また、銅製なので、使っていくうちに色が変化し、味が出る(最近ではステンレス製のものもあるようだが)。

とうふすくいについて話すぎてしまったが、ほかにも親子丼の”アタマ”を作るための「親子鍋」、厚焼き玉子を焼くのに特化した「卵焼き器」、かき揚げを綺麗に揚げるための「かき揚げレードル」など、こういった類のものは枚挙に暇がないのだ。私はこういうものがどうしようもなく好きで、理由をひとつあげるとすれば、栓抜きなら王冠、豆腐すくいなら鍋料理など、自分以外の相手あっての存在である、その奥ゆかしさ(?)。

分かりやすく言えば、瓶ビールを飲まなくなったら要らないし、鍋をやらない時期には邪魔な存在であるところ。なんと儚い存在なのだろうか!と声をあげてしまうほどに。漫画家のラズウェル細木さんも、栓抜きなどのキッチンツールについて「常に使われていたときは、目立つところに掛けられていたが、今では引き出しの奥に追いやられて、たまーに必要になったときになかなか探せなかったりして。でも缶切りも栓抜きも、いざ必要な時、何かで代用することはなかなか難しい」と哀愁(?)を感じているそうだ。


それにしても、ある固有の物質を媒介にして世の中に広まっているものは、未来に残りづらいとよく思う。例えば油絵なら、媒介にしている油絵の具が生産されなくなった瞬間に、その時代が終わってしまう。栓抜きやとうふすくいだってそうだ。王冠のある瓶ビールや、鍋の豆腐が無くなってしまったら、その人生はおしまいになる。ただ、概念で媒介しているものは、時代の流れに乗ることができるから、未来に残り得ると思うし、強いと思う。かなり抽象的な話になった。

概念のつながりは、物質のそれよりも強固である。物質は、それ自体が今ここから無くなったら、おしまいだからである。対して概念は、当事者の気分ひとつで、時空を超えて、どこにでも存在することが出来る。


見方を変えれば、物はずるいのだ(さっき儚いなどと、言っていたくせに)。だから私は、物を持ったり、貰ったりするのが苦手だ。思い出と未来の両方を奪ってしまう。物を捨てたら、思い出を捨て去るような気分になるし、捨てられないから、いつまで経っても過去に引きずられてしまう。だから、持ち物はなるべく少ない方がいい。この身ひとつあれば、いつでも過去と未来を行ったり来たりできる。何処にいても、この身ひとつあれば、生きていける。誰にも何にも邪魔されやしない。それが幸せだし、望んでいる。

ハイロウズに「愛はいらない」という歌がある。ひとりでは遊べないので、邪魔だけど何故か捨てられないボードゲームを見つめながら、「一人でいいなと思ってたのに」と口ずさむ。人間関係は、理論や理屈では超えられないところがある。なんだかんだ言って、貰ったものは、嬉しいかもしれない。