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口ベタによる一生懸命

失われた時を求めて

たまたま食べたマドレーヌをきっかけに、忘れかけていた幼い頃の記憶がよみがえることから話が展開する、フランスの長編小説「失われた時を求めて」は、私の好きな作品の一つだ。物語の始まりを与えてくれた、プルーストにとってのマドレーヌが、読者の私にとって宝物と思えるほどに。
 
誰しも、プルーストにとってのマドレーヌに代わる何かを持っている。例えば誰かにとって、ジバンシイの香水「ウルトラマリン」は、合唱コンクールの思い出を。外道に溢れるカレーを煮炊く匂いは、部活で汗を流した思い出を鮮明にさせる。ほかにも、ジャンボジェットの飛行音は、修学旅行の思い出を。遠くに聞こえる小学校のチャイムは、昔の恋人と過ごした日々を思い起こさせるかもしれない。
 
ただ、「プルーストのマドレーヌ」は意識して発見できるものではない。記憶に呼ばれた時にだけ、「マドレーヌ」が急に「プルーストのマドレーヌ」へと変化し、思い出が色鮮やかによみがえるのである。実に神秘的なことだなあと思う。そんな話を昨日友人にした。
 
 
 
ある夏の雨の日の午後、近所の図書館へ行った。閉館時刻まで本を読みふけり、外に出た時には雨はやみ、空はすっかり暗くなっていた。図書館の庭に生い茂る木々の青い匂いが、雨上がりのツンとした匂いと交差する。庭を歩いて、濡れたアスファルトを車のヘッドライトが照らす道に出ると、突然、片田舎の景色が脳裏に浮かんだ。すぐにそれがどこだか分かった。「ああ、釜石だ」とーー。
 
祖母の家は岩手県釜石市にあった。帰省するのは大抵お盆の季節で、釜石市へは、東北新幹線新花巻駅へ向かい、そこからレンタカーを借りて行く。車を走らせ祖母の家に到着すると、見慣れた景色が現れる。家の目の前には三陸海岸の港へ続く一本道がのび、裏手には鬱蒼と木が生い茂る森が広がる。何度も通って見慣れたとはいえ、東京の家とのギャップに毎度驚かされてもいた。
 
我々家族が東京へ戻る日には、祖母を含め必ず親戚皆でその一本道に並んで、車を見送ってくれる。最後に帰省したのは2010年の8月で、東京に戻るためにレンタカーへ乗り込んだのは、雨上がりの日没後だった。ここ数年でかなり弱々しくなった祖母だが、見送りに家の外へ出て来てくれて嬉しかったのを覚えている。その翌年の3月11日、津波で祖母は死に、家や街は流されてしまった。
 
近所の図書館から出た時に呼び起こされたのは、私が見た最後の釜石の記憶だった。青い木々と雨上がりの匂いと、アスファルトを照らす車のヘッドライトが、プルーストのマドレーヌとなって、もう体験できない過去となってしまった釜石の思い出を、私の中に鮮やかによみがえらせてくれたのだ。
 
 
失われた時を求めてーー。今年は釜石に帰ってみようと思う。