話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

文明は時間や距離を短縮する代わりに、ファンタジーを奪っていく

今夜夢の中どうか会いに来てーーというサビで知られるMISIAの「眠れぬ夜は君のせい」は、好きな人を思う人々のために書かれた曲だそうだ。

 
彼女はこの曲を紹介する際、夢に思い人が出てきた時には、相手の思いが強過ぎて自分の夢にまで反映されてしまった、と昔の人々の間で考えられていたことを驚き交じりに話していた。
 
今でこそ、好きな人が夢に出てくる理由は、起きている時に頭の中で考えた結果反映されたものと当然の如く知られているけれども、なんだかそんな今の時代を少し寂しく感じた。論拠のないファンタジーの世界は、とても遠く離れたところに行ってしまったのかもしれない。
 
 
 
現代におけるあらゆる現実は、とても近い場所にある。
例えば誰かに会いたいと思ったら、電車やタクシーに乗ればすぐに会いに行ける。電話をすれば、相手が傍までやってきてくれる。可愛いスタンプで気軽に連絡を取り合えるLINEは、2人の精神的な距離を縮めるのにとても役立った。ソーシャルメディアの投稿や、カメラに残った写真を見れば、相手と連絡を取り合わなくとも、心を癒すことはできる。 文明は我々の時間や距離を短縮した。
 
そして、夢みたいに嬉しい出来事は、必ず現実と地続きであるようになった。どんなに心が踊っても、いつも地には足が着いている感じがする。SNSで有名人と相互フォローしていると、リアルで会ったことが無くとも、さも知り合い同士である気分になるように、少なからず、どこかにその夢を裏付ける事実が存在する。
 
 
そういう社会で、会いに行くことも連絡も出来ないうえ(物理的に、精神的に)、SNSもやっていなければ写真もない状況下で、ひとりの人を思い続けるなんて、とても難しいことだ。僅かな心の中の残像を追い掛けるだけでも大変なことなのに、莫大な情報がその記憶を絶え間無くかき消そうとしてくる。どこぞの恋愛コラムニストには、「そんな人をずっと好きでいるなんて、ただの時間の無駄だから次へ行け」なんてアドバイスさえされてしまいそうだ。
 
そう、現実離れしたファンタジーは時間の無駄なのだ。あまりに現実味がなくて、叶う望みもなさすぎる(近頃小説があまり読まれない理由も、ここにあるのかもしれない)。
 
 
今の時代、自分の心の中でだけ温めているような話には、殆ど価値がないのかもしれない。最低でも、もうすぐその夢が叶いそうだとか、どこかに現実味や根拠がある話でないと、誰にもシェアできないから、かっこ悪いだとか無駄だとか、捉えられがちと感じる。
 
だが、その話の価値というのは、誰かの評価によるものでなく、本人が「価値がある」と信じることによって保たれるのだ。誰かや何かに焦がれる気持ちと、他者の評価や論拠は、そもそも話のベクトルが違うから、間違っても同じ天秤にかけてはならない。
 
 
会いたい人に会えたり、すぐに連絡を取れるのはとても便利なことだが、どれだけ文明が発達しても、ロマンチシズムやファンタジーは無くなって欲しくないなあと思う。例えば、夢や来世で会いたいと願っていた人に現実世界で遂に会えたのなら、その喜びはひとしおだからだ。それに、人間が唯一コンピュータに勝てる機能かもしれないし。