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話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

「或る日のことでございます」

或る日のことでございますーーこの一言でピンと来る人も多いのではなかろうか。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、私の一番好きな児童文学の書き出しだ。

 
 
なんでまた急にというと、友人に「好きな童謡やおとぎ話は何か」と質問をされた際、特に何も考えないままこのタイトルを即答していたのだが、これをきっかけに、なぜ蜘蛛の糸に思い入れがあるのかを、ちゃんと思い返してみたためだ。
 
思い入れがある理由はシンプルで、私の思想をそのままに表しているからだ。たぶん、幼少期に読んだことで、大きな影響を受けたのだろう。小学5年生だったか、読書感想文コンクールにも蜘蛛の糸を題材に感想文を提出した気がするし、その過程で私の記憶と精神に深く刻まれたに違いない。
 
 
蜘蛛の糸という作品は、泥棒と殺人の罪で地獄に落とされた男・主人公のカンダタが、生前たった一匹の蜘蛛を殺さずに生かしたことから、慈悲深いお釈迦様が極楽から蜘蛛の糸を地獄に垂らし、カンダタを救ってみせようとする、といった内容だ。
 
さて、この作品で形成された私の思想の一つは、神は人を救わないということだ。他力本願な奇跡は信じられない、の方が妥当な表現かもしれないが。
物語の結末で、結局地獄に戻されるカンダタの運命を見て、そういうものだと考えた。お釈迦様が慈悲深いのならば、ほかの罪人にも糸を垂らすべきだし、カンダタの醜い精神性が再度見受けられても救うべきだったはずだ。では何故彼は救われなかったのかというと、そもそも蜘蛛の糸が落ちてくるなんて奇跡みないな事柄は、自然摂理から光年離れていることなので、はなから信じるべきでなかったのだ。そして、糸を手繰れば極楽へ行けるなどと更なる奇跡を願ったカンダタは無能であったし、もっと言えばお釈迦様なんて存在や、そういった奇跡は人を救うものではなく、言わば「風の流れのようなもの」という理解になった覚えがある。
 
思想のもう一つは、たとえ自分の人生がかかっていようとも、カンダタのように他人を蹴落とし犠牲にするような真似は、大変格好が悪いのでするべきではないということだ。性に合わない、とでも言おうか。
この思想は一見聞こえがいいのだが、悪いところもある。例えば、私と家族と他人との3人が絶体絶命の状況で、1人死ねばあとの2人は助かると言った条件であった時に、私は他人を殺すことも、自ら死を選ぶこともできない。結局結論を出せず、必要悪を選べないかもしれない。
とまあ、そんな心の弱さもいつからか自覚している。
 
 
誰しも好きな児童文学があると思うが、その理由を考え直してみると、自らの精神性を見つめ直す機会になり面白いのでおすすめである。