読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

誰のために言葉を残すか

毎年この時期になると「暦の上では秋ですが――」なんて言葉を必ず耳にする。とはいっても、現実は30度を越す猛暑であるのがお決まりのオチだが、昨日は盆の始めだというのに上着が欲しくなるほど肌寒く、日が暮れるのも早かった。

そんな季節の変化を感じたことを、最近久しい人にメールで知らせた。夏が終わるまでに、顔を見れるといいなと思ったからだ。同時に、誰かのために言葉を書き記す意味は、こんなところにある気がした。
そういえば先人たちが「かもめーる」なんてので、同じことをやっていたなあ。


誰かに「いかがお過ごしですか?」と、たったひとこと連絡することすら出来ずに、何年も経ってしまったという経験は多分にあるだろう。その相手がとても大切な人であることも、無きにしも非ず。

前回のエントリーでも取り上げた、中国の恋愛映画「So Young」。この物語には、未来を誓ったはずのカップルの彼氏(シアオチョン)が、アメリカで仕事をするために恋愛を諦め、突如彼女(ウェイ)の前から姿を消してしまう描写がある。その後彼は、数年間音信不通となってしまうのだが。

このシーンは、その当時の中国において、感情や文化よりも第一に、経済的成功を強いられていた社会的背景を示唆しているそうだ。「もっと人として大切なものを優先すべきだった」という今の中国の後悔が、表現されているのかもしれない。
シャオチョンも「なにしてますか?手伝ってくれますか?」とLINEの一通くらい、ウェイに送っておくべきだったかもしれないな。


悪い冗談はそこそこにして、誰のために文章を書くか。「どうせ死んでしまうから」と後に残った人のために、記憶や記録を留めておくべく日記を綴り続ける芸人・水道橋博士。救われなかった誰かを救うために物語を書き続ける作家・ジョン・アーヴィング。文筆家が文字を書くのには、ちゃんとそれなりの理由がある。

並べてしまって失礼極まりないが、それでは私は誰のためにこのブログを書き残しているかというと、批評家・福田和也さんが「週刊新潮」で話していた表現を借りれば、自分と周りの大切な人のために、「タイムカプセル」を残す作業をしているのかもしれない。歴史を、感情とともに記事に閉じ込めておく。いつ振り返っても、当時をありのまま思い出せるように。