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話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

うまいもんは「ペロリと食べられる」のは当たり前で、本当は「おかわりしたい」

いい言葉選びをする人を、知らぬ間に好きになっていることがある。同様に、文を読み進めるうち、何度も胸を鷲掴みにされ、遂には書き手に惚れてしまうことがある。言葉に裏打ちされた思想に、口説かれるのだ。

と、これから惚れた作家について順番に書こうと思ったが、ここで話すには場所が狭すぎる。書き始めた時から薄々勘付いてはいたが、今、この記事だけでは書き終えることができないことが分かった。

東海林さだおさんの「週刊朝日」における連載タイトルから言葉を借りれば、まるで「あれも食いたい、これも食いたい」状態だ。いくらでも語ることがある。


そういえばこの連載、通称「あれ食い」は、好きな食べ物への熱い思いを、永遠語るだけの文章なのだが、これが実に素晴らしい。読んでいるうち、途端にお腹が空いてくる。これを食べないわけにはいかない!という思いになる。

例えば、「チャーハンのスープ」の回の始まりを紹介する。「チャーハンというやつは、どうにもこうにも魅力的で、本当にどうしようもない。何が魅力的といって、出来上がったばかりのチャーハンほど魅力的なものはない」。彼の食欲と、好きな食べ物への恍惚とした思いが、彼の文体とあいまって、その魅力を存分に引き出している。

この後はいかにも美味しそうなチャーハンの様子を、具材だとか湯気だとか、角度を変えて展開していったのち、「口の中が(飯粒にコーティングされたラードの)脂で濡れる喜び、その時始めて傍にひっそりと控えていたスープを引き寄せて、ひとくち」と、最高の状態でチャーハンのスープの話を読み手に提供する。読み手は腹をならすか、悶絶するしかない。もうお見事としか言いようがない。


よくあるグルメ関連の文章やコメントは、やれ逸品だとか絶品だとか、エスプリがウンタラだとか、やけに濃いコーヒーだかなんだか分からない言葉をつらつら並べ、最後は「ペロリと食べられる」で締めるのがお決まりのようだが、あまりに説明的すぎて、心躍る表現が少ないように思う。東海林さだおの文章のように、もっと腹の底から欲情させてほしい。

第一、うまいもんは「ペロリと食べられる」のは当たり前で、本当は「おかわりしたい」のではなかろうか。私だったらおかわりしたい。腹と懐に余裕さえあればだが。

そういった文章を読んだ人の多くは、文ではなく、デカデカと貼られた料理の写真にそそられているだけのように感じるが、まあ、最近のメディアの作りが画像や映像主体になっているのだから、文章は添え物程度でよい、なんて言われてしまえばそれまでであるけれども。


さて、話を戻す。東海林さだおさん、好きなんだよなあ。


※「あれ食い」は実写化もされている。本当は文を読んで欲しいところなのだが、なかなかいい映像なので動画のリンクを貼っておく。
あれも食いたい これも食いたい「チャーハンのスープ」 - YouTube