話半分で聞いてください

口ベタによる一生懸命

雨上がりの晴れやかな気持ちと、ショパンとベトナム戦争

振り返れば、暗闇にいた時間があったなと、そんな遠い日を思うことがある。それは一見、非常に貧しかったり苦しかったりする話でもあるけれど、見方によっては、煌びやかで楽しい毎日であったりもする。それに、その暗闇の体験がきっかけとなり、その後の人生が素晴らしいものとなったりもする。

想像を絶するような暗闇を乗り越えたエピソードを持つ、素晴らしいピアニストがいる。ベトナム人のピアニスト、ダン・タイ・ソン(58)だ。彼は第10回(1980年)ショパン国際ピアノコンクールのアジア人初の優勝者で、私の1番好きなショパンの音色を奏でる演奏家でもある。


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 1st movement (1/2) - Dang Thai Son

ダン・タイ・ソンベトナムの中でも裕福な方の家庭に生まれたが、その時には既にベトナム戦争が始まって3年が経っていた。彼は生まれながらに、ひとりの大戦の犠牲者なのだ。

ダン・タイ・ソンの家族は、戦争が激化するにつれ、望まぬ疎開生活を余儀なくされる。そしてとうとう、彼もピアノを弾けない状況に立たされてしまう。そこで彼はどうしたかというと、疎開先や、防空壕の中で紙に鍵盤を描いて練習していたそうだ。

一体彼はどんな思いで、振動も圧も音もない鍵盤の感触を、暗闇の中で確かめていたのだろう。ピアノのメロディの代わりに聞こえてくるのは、爆撃や恐怖に震える声だったかもしれない。それに、ピアノを弾いても周りには観衆もいないし、そんな舞台もない。

もっと言えば、どんなにピアノを頑張ったって、今後、浮かばれる未来はどこにもないかもしれないにも関わらず。ベトナム戦争は1955年に始まり、終焉したのは1975年。彼が16歳の時だった。

その5年後、ショパン国際ピアノコンクールという世界中のピアニストが憧れる舞台で優勝した時には、彼はどれほど浮かばれた思いになっただろう。彼のその時の、雨上がりの晴れやかな空のような気持ちを思うと、感情移入せずにいられない。

さて、彼はどんな演奏をするかというと、楽譜に忠実で、着色をあまりしないように思う。 基本的に演奏家というものは、楽譜や作曲家の情報から曲の意図を汲み取って、自分の心に落とし込み、その類稀な技術に練習を重ねて仕上げていく。そのなかで、自分なりの特徴的な表現や理解を出していくのが演奏家の「やり方」である、と私は思う。

特に、ショパンのピアノは叙情的で詩的なので、演出の細工をしようとすれば、分かりやすくロマンチックで激情的な音色になったりするのだが。

だから私はショパンのピアノについて、モーツァルトよりも、ベートーヴェンよりも(そりゃあバッハよりも)弾き手の「らしさ」を出しやすいし、感情の表現をしやすいと思うのだが、ダン・タイ・ソンという人は、ショパンのピアノについては、あえて、着色を殆どしていないように感じている。

きっとダン・タイ・ソンは、ピアニストとして、人間として、ショパンらしくあろうとしているのではないだろうか。そして、もしかすると、ロシアに祖国ポーランドを支配され、政治的動乱に人生を巻き込まれ続けていたショパンの生い立ちに、彼は自分の人生を重ねているのではないだろうか? それゆえに、ショパンの旋律やメロディに「着色しない思想」があるというのならば、なるほど頷ける。

ところで、私がダン・タイ・ソンの弾く曲の中で1番どれが好きかというと、「ピアノ協奏曲ホ短調第1番」。ショパンやクラシック初心者の方にも何かと「分かりやすい」と思うし、物語のような展開が有って聴いていて楽しいのでオススメだ。

ピアノ協奏曲ホ短調第1番は、ピアニストが独奏し、それをオーケストラが盛り上げるスタイルの曲で、第1、第2、第3楽章で構成されている。ショパン国際ピアノコンクールの決勝戦(ファイナル)の課題曲にもなっている。

なので、ショパンを愛する人々にとっては「定番」と言ったポジションの曲でもあり、大事な曲でもある。このブログを読んでショパンダン・タイ・ソンに興味をもってくださった方はぜひ、聴いてみてほしい。ピアノの演奏はなかなか始まらないけれど、頑張って我慢して聴いて欲しい。

なぜならーー。4分近くの荘厳なオーケストラの演奏が終わった後に、やっと始まるピアノの独奏は、これ以上の胸の高まりはないと言えるほど甘美で豊かな音の移ろいで、さっきまで鳴り響いていた重厚な音を忘れさせてしまう世界観を感じさせ、更には、長い暗闇から解き放たれた、あの時の空のような、晴れやかな気持ちを思い出すことが出来るから。


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 1st movement (1/2) - Dang Thai Son


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 1st movement (2/2) - Dang Thai Son


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 2nd movement - Dang Thai Son


Chopin Piano Concerto No.1, Op.11, 3rd movement - Dang Thai Son